20/08/15 砂に消えた涙 (弘田三枝子さんに捧ぐ)
2 Comments
wooは宇宙船のwoo

ハンセン氏病の国立療養所邑久光明園、長島愛生園に来ています。今年はぜひ行ってみたかった。前提として、入所者の方たちはハンセン氏病の治療を終えており、ハンセン氏病の患者はいません。入所者さんは高齢や後遺症のためここで療養されています。

もともとここは大阪に縁があるところで、大阪市西淀川区、神崎川下流につくられた三区府県立外島保養院がその前身です。1934年の室戸台風で全壊流出、200名弱の方が亡くなり、こちらに移転してきたとのことです。

1988年架橋された長島と岡山県本土を結ぶ邑久長島大橋は「人間回復の橋」と呼ばれ、グーグルマップにもそのように書かれています。橋が架かることは人間性を回復すること。それ以前、橋もなく自由往来のできない島に強制収容されるという非人間的な処遇を受けた歴史があります。

「砂の器」に描かれたような、発症したために故郷を追い出され流浪する患者たちを強制的に収容し始めたのが1930年代。

有効な治療薬が日本で使用され始めたのが1948年。しかし世界の流れにも逆行し1953年にはそれまでの法律を改正した「らい予防法」が制定され、強制収容、就学禁止、外出禁止等、人権を制限した施策がその後も続きます。

いただいた資料を読んで初めて知ったのですが、入所の際は不妊手術が義務付けられていた。また10歳に満たない子どもの収容も多数あったということです。

最大3000名ほどの入所者さんたちがいた光明園、愛生園ですが、入所者が入所者の世話をし、食料を生産し住居を作り道路を作り、学校で代用教員として教壇に立ちました。治療より隔離に重きを置いたといえるでしょう。
(長いので・・・)

入所者さんたちの長い運動は行政を動かし、地元の協力も得て1988年、先の邑久長島大橋の架橋、開通となりました。

橋は入所者さんの隔離からの解放を象徴する大きなモニュメントでもあるわけです。翌1989年には路線バスが開通し、私も今回訪問することができました。

「人間回復の橋」を渡ることは人間回復へ向かう道。私は人間らしく暮らすことができているのか。私の道にはどれだけの渡るべき橋があるのか。

ハンセン氏病の患者さんを橋のない島に隔離したことは、隔離した側の者をも非人間化したともいえます。

一度形作られた差別の根強さは想像を絶するものがあります。自分の問題としてそのように思います。

橋が開通しても、隔離収容を柱とする「らい予防法」の廃止までは8年を要しました。

2001年には「らい予防法」による強制隔離は憲法違反という訴訟で原告は勝訴しています。

一方で2003年入所者がホテルの宿泊を拒否される事件があり、人権問題が現在も解決途上であることも明らかになりました。

愛生園の歴史館では、当事者たちの苦闘の歴史を知ることができます。しかし果たして苦闘努力しなければならないのは当事者なのでしょうか。私たちにとっても病に無知なまま、恐怖にかられ(元)患者を忌み嫌い閉じ込め、他人にバレてはいけないという苦悩から解放されるなら、どれほど晴れ晴れとした暮らしとなるでしょう。

歴史館の掲示板にはコロナ禍の問題についても言及がありました。シンプルですが重いです。「病者差別があってはならない」。ウイルスのことのみならず、人の行いに心を痛めておられる。当事者たちのメッセージを深く心に刻みます。

バス停前のカフェ「さざなみハウス」では絶景を堪能しながら愛生園発行の文献など、貴重な資料を読むことができます。タイミングよく島倉千代子の「愛のさざなみ」が流れ、それに合わせて歌う高齢のお客さんの姿が沁みました。大事な思い出とたくさんの資料をいただいてJR邑久駅行のバスに乗り込みました。