23/08/14 「平和のうち(家)に生存する権利を有することを確認する」

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スクリーンショット 2023-08-14 081148

 国土地理院のサイトでは過去の航空写真を見ることができます。写真は1936年~1942年ごろの写真ですが、興味深いことにいくつかの部分が黒塗りされています。誰が何のために、というのは今は置いておきます。写真は淀川をはさんで高槻、枚方あたりですが、高槻の工兵第4連隊、枚方の陸軍「枚方製造所」が黒塗りされていることがみてとれます。(ふしぎなことに隣接する弾薬庫は塗られていない)そして下のほうにひときわ大きな黒塗りがされていますが、これは「東京第二陸軍造兵廠香里製造所」(1942~)でやはり火薬、砲弾を作っていたとのことです。

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 「東京第二陸軍造兵廠香里製造所」(以下香里工廠)には専用の鉄道引き込み線が敷かれていました。写真右手は学研都市線星田駅近辺。高架でなかった線路から左へ分岐して香里工廠へ鉄路は伸びていました。

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 戦後鉄路は廃止され、この道は香里平和ロードと名付けられています。禁野火薬庫からの専用引き込み線が中宮平和ロードと名付けられているのと同じですね。

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 このような解説版もあります。枚方行政の平和への思いが感じられます。

東京第二陸軍造兵廠香里製造所安瓦薬収函室

 香里工廠の遺構は年々少なくなっているそうですが、一部残されています。写真は「東京第二陸軍造兵廠香里製造所安瓦薬収函室」(現クリニック)で、安瓦薬とはやはり火薬の一種とのことです。

東京第二陸軍造兵廠香里製造所第3汽鑵場煙突

 香里ケ丘団地の丘を登っていくと、枚方市妙見山配水池、その敷地にこの煙突があります。これも香里工廠の遺構で、「東京第二陸軍造兵廠香里製造所第3汽鑵場煙突」、火薬を乾かす施設の一部だったそうです。配水池の門に説明版があります。それにいたく感銘を受けていしまいました。長いですが一部引用します。

「敗戦により工場は閉鎖されたが、1952年(昭和27年)、朝鮮戦争の特需ブームにのって火薬製造会社が、旧香里製造所の払い下げを申請した。これに驚いた枚方市・寝屋川市の香里園地区住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。枚方市長・市議会をはじめ町内会、PTA、婦人会などは再開反対を叫んで、国会・政府に陳情を重ねた。衆議院通産委員の現地視察には、反対の旗とプラカードが香里園地区を埋めつくした。そして、半年以上におよぶ粘り強い地元の反対運動が実り、翌年3月、政府は火薬製造所再開を断念した。」(大阪府・枚方市)とあります。

 水道施設の銘板じゃないでしょ(笑)。平和運動の歴史をきちんと記録して刻んでおこうという強い意志を感じます。大阪府も枚方市も立派なものではありませんか。香里ケ丘の美しい町並みは平和運動の力が作ったのですね。街中にも歴史を伝える像と銘板がありました。それには禁野火薬庫の大事故が関係していることはあきらかです。(ちなみに禁野火薬庫隣接の「枚方製造所」も払い下げの話が出て、こちらにも反対運動があったが、工場は小松製作所に払い下げられた。小松製作所では火薬の製造はせず砲弾の弾体が作られた。)

(やっぱり長くなるので続きます)
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 場所は変わりまして、JR奈良線木幡駅下車。宇治市にも火薬製造工場、火薬庫そして火薬製造分析工場がありました。この火薬庫も爆発事故をおこしています。今の木幡駅、黄檗駅にわたる広い敷地で、こちらにも木幡駅付近から火薬製造分析工場への専用引き込み線が敷かれていました。ちょうど写真の遊歩道が引き込み線跡になります。

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 引き込み線の盛り土が何の説明もなく当時のまま残されてます。異様です。(遊歩道の部分には説明版があります)盛り土の上にはワルナスビとかが生い茂り整備されてると言えません。

 この専用引き込み線はJR奈良線に合流するわけですが、こちらで製造された火薬等はどこへ運ばれたのでしょう。最終的な行き先が片町駅の大阪工廠であるとすれば、木津駅まで行ってスイッチバックして片町線を行ったのかもしれませんね。

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 宇治市のここはウトロ平和祈念館。昨年オープンしたばかりでもっと早く行きたかったのが今になりました。(後ろの建物は祈念館ではなく屋外展示物です)
 宇治市伊勢田町のこちらで、大日本帝国政府は京都飛行場建設を始めました。その建設のために飯場が作られ多くの朝鮮人たちが住み込むことになりました。敗戦により飛行場建設は中止。戦後その地で新しく生きる糧を開拓しながら住み続けた人々がいましたが、立ち退きの危機に瀕することとなりました。幾多のそれはそれは過酷な状況でありながらも住民たちの願いは地域を超え国境を越えた支援につながり、平和的に住民が了解できる内容で行政と合意に至りました。記念館の展示を見ながら、その運動に深い感銘を受けました。

 身の危険を感じることなくのびのび楽しく暮らすことができること、これは基本的人権の「生存権」そのものでしょう。それは待っていれば与えられる、というよりやはり「不断の努力」が必要だったのです。憲法前文「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」ために尽力した方たちに万雷の拍手を惜しみなく送りたいと思います。

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