16/08/15 WAR ボブ・マーレイ 

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wooは宇宙船のwoo
 8月は戦争と静かに向き合うのが正しい過ごし方だと思うのです。まあ四六時中向き合うわけにはいかないのですが、今回は戦争遺構を取り上げてみます。また長くてくどいのですいません。

 さっそくですが、高槻市民としては避けて通れないのが「タチソ」。「カツキ カ ウコ」だから「タチソ」、あまり真剣に秘密にしようとしていないようです。山の際になるこのあたりにトンネルを掘って工場や司令部を空爆から逃れさせようとした。実際は機能せずに敗戦。

タチソ

 神峯山寺上流から流れる桧尾川流域のこのあたりは今、新名神の工事中。1号トンネル群、2号トンネル群を標高差マップに重ねてみました。トンネル群は現存するのですが、保存状態がよくないとのこと。

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 碑に書かれている通りだと思います。

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 この小山に2号トンネル群が掘られました。上記の碑は道路に面した左手にあります。

 さて淀川を渡って枚方市。枚方市には大阪城の砲兵工廠と連動した弾薬庫がありました。現在の中宮団地とか市民病院、小松製作所のあたり、広い敷地だったようです。

きんや


 地図は昭和22年ですから禁野弾薬庫跡(赤マーク、青マークは後述)とあります。この弾薬庫は2度、爆発事故を起こしています。1896年竣工で一度目の事故は1909年。近隣地域にも被害が出て反対運動があったのですがなんと事業拡張。2度目の爆発は1939年。死者94人重軽傷者約550人・・・。さらに引き続き事業継続っていったい何をやっていることやら。

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 禁野幼稚園に、殉職した消防隊員の碑があります。手を合わせてきました。弾薬庫跡の碑は小松製作所の中にあるそうで、お盆の(日)では門番さんもいません。話し聞けず残念。中宮団地内には弾薬庫の土塁が説明版とともに保存されています。

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 これとか

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 これらです。
 先の古地図上の青線ですが、鉄道が通っていました。弾薬を乗せた列車は津田駅あたりで学研都市線に合流、そのまま京橋片町の大坂砲兵工廠へ。地図には国道307がありませんね。この廃線跡を国道にしたのでしょう。よく通る道が廃線跡だったなんて、うーむ抜かったわ!

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 この美しいカーブはまさに鉄路跡、現在は中宮平和ロードと名づけられ歴史的経過も説明されています。鉄路より前、もともと大阪城の砲兵工廠とは淀川の水運でつながっていました。

 というわけで以下へ続きます。


 大阪城公園には大坂砲兵工廠の遺構が少なくなってきているらしいですが、大阪城ホールそばに搬入用のゲートがあります。枚方からの弾薬もここに運ばれてきたのでしょう。これもなんだか放置状態。もっと大事にしていただけないものか。(撮影は冬)

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 さて、大阪砲兵工廠を含む大阪城周辺は軍需工場、司令部、練兵場などまさに軍都だったので、結局空爆されることになりました。

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 昭和6年完成の3代目天守閣は奇跡的に焼けなかったのですが徳川時代の石垣が1トン爆弾でずれました。山里丸側の石垣には機銃掃射の弾痕。

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 ところで、天守閣と同じ本丸にあるこれは旧「大阪市立博物館」ですが(まだ博物館だったころに入ったことがあります)もともと大日本帝国陸軍第四師団司令部の建物でした。師団ていうのはだいたい万単位の兵を抱えます。第四師団通称号「淀」。第五師団は広島で通称号「鯉」なんですね。広島カープはここからきてるのか?

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 話を元に戻しまして、3代目天守閣再建ということで市民の寄付が集まりました。その額150万円のうち80万円がこの司令部建築のために使われたということで、これっていったい?それもこれも含めてこの建物現在何にも使われていないってどうよ。

 空爆(空襲か)といえば、東淀川区には米軍爆撃機対策として高射砲が設置され、砲台がまだ残っています。

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 もともと5基くらいあったようですが、これらも道路予定地のため取り壊し直前です。写真の砲台はすでに撤去されました。あと2基あります。保存運動もあるのですが何とかならないものか。考えてみるにいったいこれらは役にったったと言えるのでしょうか。大阪には8回の空襲がありました。市民の命や住まいを守れたのか。そのためにはどうするのが一番良かったのか。そもそも守る気があったのか。

そかいどうろ

 もう終わりますので、すいません。最後は東成区玉津1交差点から(現在はもっと北へ延伸しています)阪和線美章園駅あたりへ南北に走る「疎開道路」(オレンジの線)。今も疎開道路と呼ばれていますが、最近その意味を知りました。子供たちが田舎へ避難する「疎開」ではなかった。

「アメリカ軍の空襲による火災が広がるのを防ぐために「防空空地帯」としてつくられた空き地だった。「お国のために」ということで昨日まで住んでいた家や店などが取り壊された。人も建物も「疎開」させられてできた空き地で、戦後、道路として利用され「疎開道路」と呼ばれるようになった。ロープと大槌を使った手作業で建物が破壊された。1944年2月から6月の間に行われ、幅は12~13mであったといわれている。」(引用-http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/ik-miyuki5.html

 あなおそろしや。道路の拡張って今なら10年単位で進められますよね。4ヶ月でって・・・。「疎開」っていういかにも官僚が作ったような言葉づかいがそらぞらしく・・・。基本的人権より「公共の秩序」を優先するとこうなる。非常時だからと人権を制限してやったこと。

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 これが今の疎開道路です。当事は道路ですらなかった。
 
 戦闘状態だけが戦争ではありませんね。民の時間や財産や労働や思想信条やさまざまな個人にとって大事なものが、国家のために自由に動員される日常が作り上げられます。その先に戦争がある。くり返しになりますが、これらはいったい何かのお役に立ったのか、誰が何をどうしたかったのか。私は、あなたはそのとき、そして今。歴史はやすやすと忘れ去られます。学ぶべきことはまだまだ多そうです。

wooは宇宙船のwoo
Posted bywooは宇宙船のwoo

Comments 2

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すっとび  

禁野弾薬庫の事故、調べてみたら29回の爆発が起きて、半径2km四方に砲弾の破片が飛散したとは恐ろしすぎです。
戦時ではそういったことが起こりうるんですね、平和なのが一番だと思います。

2016/08/15 (Mon) 23:06 | EDIT | REPLY |   
woo  
>すっとびさま

お疲れのところコメントありがとうございます。空襲されたことはなかったようなのですが、地域住民にとってみればいったい何やと。それでも止めないお偉方のむごたらしさも。平和なのが一番と、私も思いました。

2016/08/16 (Tue) 08:49 | EDIT | REPLY |   

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